危機管理・テロ対策・暴徒鎮圧を目的に開発された新世代プラズマサーチライト
伊藤祐靖氏 スペシャルインタビュー
Photographer:藤井元輔 Interviewer:土田康弘
Photographer:藤井元輔 Interviewer:土田康弘
テロ対策特殊装備展で偶然出会い、すぐに魅了された―
自衛隊初の特殊部隊である特別警備隊の創設メンバーである伊藤祐靖(いとう すけやす)氏。
自衛官として組織の進化に努め、世界にも通用する特殊部隊の育成に尽力。
退官後は海外の軍との関わりをフィードバックすることで外部から自衛隊のレベルアップに寄与しつつ、民間への講演活動さらには執筆活動などを行う。レイギアーズの製品との関わりも深い伊藤氏にその思いをうかがって来た。
陸上競技の短距離選手から自衛官へ
やりがいを求めて一からスタートを切る
特殊部隊創設メンバーであることからも、自衛官の中でも特別な存在として見られている伊藤氏、そんな人物だけに生粋の自衛官としての少々おっかない人物像を想像してインタビューに臨んだが、ご自宅にお邪魔して挨拶を交わすと柔和で物腰の柔らかな人物であることがわかり少し意外に思ってしまうほどだった。
―― そもそも伊藤氏は自衛官を目指したのはふとした偶然からだった。日本体育大学に陸上競技の短距離選手(特待生)として入学、卒業後は高校の体育の教師になることも決まっていたという。
「教育実習などにも行ったのですが、この仕事を自分の一生の仕事にするのだろうか? と少し疑問を感じたのです。そんな時にふと頭をよぎったのが小さな頃に祖母から言われていた言葉でした。祖母は当時素行が悪かった私に向かって“昔ならあなたのようなものは予科練に行ったものでしたが今は無いので可愛そうよね”と話していたのを思い出しました。父は陸軍中野学校出身だったこともあって、自衛官になることを思い立ったんです」
―― しかし幹部候補生を受験することなく海上自衛隊に入隊、あえて2等海士からスタートすることを選ぶ。
「運動部の縦社会に慣れていた私なので、幹部候補生は、いきなり上級生からはじめるのと同じで何かしっくりこなかったんです。それで1年生から順に階段を登っていく道をあえて選んだんです」
―― その後は幹部候補生となり艦艇勤務に従事する。その時の経験から海上自衛隊に臨検などを行うことができる特殊部隊の必要性を強く感じた伊藤氏は、上層部に上申書を書くことを考えたという。
「しかし上官と話しているとすでに政府が特殊部隊の創設に動いていることがわかったんです。それですぐに特殊部隊への希望を出しました。結果的には海上自衛隊の特殊部隊である特別警備隊の準備室に配属されることに決まったのです。選ばれた理由は想像するに、特殊部隊創設のきっかけになった能登半島沖不審船事件の現場に居合わせたことが大きかったのだと思っています」
―― 伊藤氏の人生が大きく動き出すことになる特別警備隊への配属、本人もその重要性を知り高ぶるものを感じたのだった。
「特別警備隊の準備室に配属が決まったときには両親に挨拶に行ったのを憶えています。“よくぞこのタイミングでこの国に、この身体、このこころに私を産んでくれた”と感謝を伝えたかったのです。特別警備隊の創設というタイミングに年齢的にもピッタリと合ったことにも運命を感じました」
能登半島沖不審船事件に航海長として参加
自らの進路を大きく変えるきっかけとなる
そして伊藤氏のその後の人生を大きく左右する事件に遭遇することになる。それが能登半島沖不審船事件(1999年)だった。
当時、伊藤氏はイージス艦みょうこうの航海長として乗船、そこで起こったのがこの事件だった。北朝鮮の不審船の追跡に加えて、海上自衛隊が立ち入り検査を行うということになる。しかも相手の船に乗り込んで行うことは世界的にも希な任務だった。
さらに当時は海上自衛隊ではそのような作戦を実施する態勢が整う前で、隊員への武器や防弾チョッキなどの装備品が十分に行き渡っていなかった。それでも命令を受けた伊藤氏はみょうこうの乗組員に小銃などを持たせて準備できる装備を調え不審船に乗り込むための部隊の編成を行うことになる。
- 「能登半島沖不審船事件」当時の幹部らの証言をもとに真相を完全再現
(2024年3月27日放送「news every.」より) - 工作船への立入検査 異例の判断と現場の葛藤 当事者が語る”北朝鮮工作船事件” 緊迫の「ロングバージョン」
自衛隊初の特殊部隊の創設メンバーとして、誰も経験したことのない産みの苦しみを味わう
―― しかし自衛隊初の特殊部隊の創設は困難に次ぐ困難で始まった。準備室は基本的には指揮官と先任小隊長である伊藤氏ともう1名の計3名。実務を担当するのはほぼ伊藤氏だけという態勢だった。
「12月に発令を受けて3月に部隊の教育をはじめるというスケジュールは決まっていました。その間には部隊としての予算の折衝、装備品などの手配、さらには基地の建設などもひとつひとつ作り上げて行きます。その上約50名の1期生の人選も任されたのです。そして特殊部隊の教育はこれまで誰も経験が無いので私自身が担当することになりました。カリキュラムも指揮官と協力しつつ作り上げたのです。いずれも、これまで経験したことの無いことばかり、ひとつひとつをクリアしていくのが大変でもありやりがいのある作業でした」
―― 特殊部隊の教育という前例の無いミッションを与えられた伊藤氏、数々の困難をクリアしてきたのだが、中でも自身の経験が生きたと強く思えたのが教育内容の策定だった。
「教育カリキュラムの目的は明確だったのです、それは私が経験した能登半島沖不審船事件をいかに防ぐかでした。どうやって拉致されている日本人を奪還するのか、そのためには移動/乗り込み/戦闘/帰還の手段とそれぞれのミッションが明確でした。私がその場に居合わせて実戦の経験もあったためすべての根拠がリアルだったため明確な教育方針が決められたのです」
特殊部隊の隊員は、自分で考えて行動する能力を鍛える必要があると考えて教育方針を策定
―― 3月になると予定通りに特殊部隊の教育がスタート。伊藤氏は教官でありつつ自分自身も教育を受ける学生の立場でもあった。しかし伊藤教官の教育方針は自衛隊としてはかなり変わったものだった。
「特殊部隊の隊員はその名の通り特殊な環境で戦います。そのため自分で考えて行動できる力が求められるのです。そのため教育内容などでおかしいと思うことはどんどん発言することを許したのです。学生にも拒否権を認めたのです。これは上意下達の自衛官としては異例のことでした。しかし直接生死に関わる頻度の高い特殊部隊の隊員は自分で判断して行動するべきだと私は考えたのです」
―― 伊藤氏のその思いは徹底していた、特殊部隊の教育中は敬語も禁止してすべての隊員が対等の立場で向き合える環境を整えるなど、これまでの自衛隊の組織を根底から覆すスタイルを作っていく。
こうして7期にわたって特殊部隊の隊員育成に関わった伊藤氏、自身も特殊部隊である特別警備隊へ配属され実戦と教育の双方を長く手がけていくことになるのだった。
「特殊部隊の教育を受けた卒業生達の成長ぶりは目を見張るものがありました。船に乗っている姿を見るだけでオーラがありました。装備品の積み込みひとつ取ってもまったくムダがなくなったのです。指示されて動くのでは無く自らが何が目的なのかを考えて行動できる、そんな実戦的な隊員が育ったと思いました」
退官後は世界の軍とのネットワークを生かして、新しい戦術思想を自衛隊にフィードバックし続ける
―― 自衛官として順風満帆だった伊藤氏だったが、2007年には自衛隊を退官することになる。目的は世界中の軍の持つ情報や戦術思想を見て、日本の自衛隊にフィードバックしたいと考えたのだ。それには自衛官の身分のままでは難しい、民間人となって広い知見を広めたいと思ったのだという。
「実は今私が持っている戦術などの知識の80%以上は退官後に身につけたものなんです。それだけ海外の軍からは得られるものが多かったのです。フィリピンに行った時には自衛隊には無い非常に実戦的な戦闘シミュレーションなども学びました。こうして道具の使い方までを変えていく戦術思想を学んでいったんです」
世界各国の優れた戦術技術や思想を伊藤氏は積極的に日本に持ち帰って広めはじめた。
陸海空の各自衛隊に講師として招かれ従来の自衛隊には無かったより実戦的な戦術技術や思想を次々に伝えていくことになる。
―― その一方で伊藤氏には民間企業からの講演の依頼も舞い込むようになる。
「私がもっとも得意としているのは作戦立案です。これは企業の意思決定などにも大きく関係していることがわかったんです。さまざまな分野の経営者と話していると私の思想を自分たちの会社に伝えて欲しいという依頼を受けることが増えたのです。私の経験してきたことは組織論も含めて民間企業でも役立つ考え方があったのだとこの時に知るのでした」
―― さらに伊藤氏の現在のもうひとつの顔が作家としての側面だ。数多くの著書を世に送り出し、自衛隊や特殊部隊での経験を広く知らしめる活動も行っている。著書である『邦人奪還 ―自衛隊特殊部隊が動くとき―』もそのひとつだ。尖閣列島での衝突、北朝鮮の拉致被害者の救出作戦などを描いたフィクションながら、そのリアルさは能登半島沖不審船事件を現場で経験し特殊部隊の教官、隊員を歴任した伊藤氏ならではの表現方法であることを感じさせる著作だ。
「この本を書いたのは、国民の生命、財産を守ることだけが自衛隊では無いと言うことを伝えたかったのです。それをひと言で表現することが難しくて、特殊部隊の任務を疑似体験してもらい多くの人に自衛隊とは何なのかを知ってもらいたかったのです」
レイギアーズとの出会い。
装備にも精通し、実戦で使うライトに求められる性能をアドバイス
―― 伊藤氏は自衛隊に関わる装備品にも精通している人物だ。テロ対策特殊装備展(SEECAT)に置いてレイギアーズのTSUKUYOMI・9が展示しているのに偶然出会い、すぐに魅了されたという。
「特殊部隊でもストロボライトを使うことがあるのですが、TSUKUYOMI・9を手にとって見たところ、ボディの重量バランス、大きさ、スイッチの深さなど、すべてに渡ってベストだと瞬時に感じたのでした。元々道具にこだわりは少なかったのですが、この時ばかりはこの道具は100点だと思ったのです」
―― こうしてレイギアーズとの関係をスタートさせた伊藤氏。その後、伊藤氏のリクエストを取り入れたTSUKUYOMI・9をベースとした伊藤祐靖 Limited Edition『黄泉 – よみ – 』を作り上げることになる。通常のライトはスイッチオンで常時点灯が常識だが、この仕様が特別なのはスイッチオンするとストロボ点滅がすぐに始まる点だ。さらにこのモデルのストロボ発光はどのメーカーの製品とも異なる、強烈な眩惑効果を与えることができるのが大きな特徴となった。
「戦闘では相手が嫌がる環境下に引きずり込むことで優位に立つことができます。水の中や暗闇などです。中でも暗闇の中では相手の目を眩惑させる(目をつぶす)のが強いストロボ点滅なのです。実戦ではすぐにこの機能が使える必要があったので、スイッチオンで瞬時にストロボ点滅が始まる仕様をオーダーしたのです」
伊藤氏の特別仕様にはコウモリのロゴマークが記されているが、これは特殊部隊のマスコットがコウモリであったことに由来している。まさに自身の経験に基づいた仕様を込めた伊藤氏仕様ができあがった。この通りレイギアーズの良きアドバイザーとしても伊藤氏の存在は大きい。プラズマサーチライトに対してさらに実戦で必要な機能や仕様の研究開発が今後も続く予定だ。
確固たる理念を持つことで人生は楽にできる。複雑な現代だからこそイージーな生き方を伝える
―― 最後に伊藤氏から後進に向けてメッセージをもらった。
特殊部隊としての経験から民間人としての幅広い活動を通じて、今思っていることがあるという。
「人生はイージーなんです、ただしイージー(楽に)生きるためには確固たる理念が必要だと思います。私の場合は能登半島沖不審船事件がすべてのベースになっています。理念はここにあるので、すべての思いの基軸を定めてしまえばイージーなんです。
私は長らく日本には国家としての理念が無いと思ってきました、しかし先日上梓した「陸軍中野学校外伝」に書いたのですが、開戦と終戦の詔に共通した文言として書かれている“万邦共栄の楽しみをともにし”こそが日本の国家理念だったと気づいたのです。これはすべての国々と共に栄え、その喜びを分かち合うという意味です。そんな理念を多くの人に知ってもらいたいと思っています。このように皆さんも自分自身の基軸となる理念を持って人生をイージーに生き抜いて欲しいと思います」
伊藤 祐靖(いとう すけやす)
1964年(昭和39年)生まれ、日本体育大学体育学部に陸上競技の短距離選手日体奨学生(特待生)として入学した後、1987年に海上自衛隊に2等海士で入隊、自衛隊初の特殊部隊である特別警備隊(海上自衛隊)の創設メンバーとなる。1999年の能登半島沖不審船事件ではイージス艦みょうこうの航海長として参加。2007年に退官後は自衛隊や民間企業の講師を務める傍ら著書も多数。