田村装備開発 五島義識氏 スペシャルインタビュー

田村装備開発の中でTTCの講師に加えて装備品開発の企画・デザインを担当するなど、多芸なゼネラリストとして知られる五島義識氏。
そんな五島氏は自衛隊では狙撃手だった経歴からもストイックなイメージが伝わる。興味深いバックグラウンドについて聞いた。

インタビューを開始する前の雑談だけですでに誠実さや実直さがストレートに伝わる五島氏。何事に対しても真摯に向き合うその姿は見た目も話しぶりも正真正銘のナイスガイだ。しかも田村装備開発ではTTC(Tamura Training Center)の講師をと務めつつ、自らがミシンを使って縫製を行い、デザインまでをこなして装備品の企画開発を手がけているマルチタスクな才能を持ち合わせている希有な人材でもある。

現在の田村装備開発の根幹となる複数の事業に大きく関わる五島氏、ゼネラリストとしての能力を培ってきたこれまでの経緯に迫っていくことにした。

「高校時代には特に将来の目標などは決めていませんでした。しかしお金儲けに興味があるわけでも無く、なんとなく人のやりたがらないキツいことをやってみたいとは思っていたんです。当日からストイックな部分があったんだろうと思います。それと同時に人のために何かをやりたいと思っていたのもありました。警察官や消防隊員、自衛官などを進路に考えたのはそのためでした。将来につながる特技も特になく、身体を使うしかなかったというのもあります」

―― その中から五島氏が選んだのは自衛官だった。

「なかなか自衛官のなり手が少なかったこともあって、当時の募集担当官へ自衛官に興味があると言うと話が進んでいき、トントンと入隊まで決まっていったんです。こうして、ある意味成り行きの部分もあったのですが目的通りに自衛官になることができました」

―― 自衛官になると五島氏はいきなり個性を発揮し始める。それもストイックさや人とは違うことを志す、今に繋がる五島流の考え方がすでにこの頃からでき上がっていく。

「自衛隊に入ってからの教育課程の中で職種や勤務地の希望を聞かれるのですが、色んなことができ、変化が大きい場所を求めて、(キツそうな印象から)同期の間ではあまり人気のなかった普通科を希望しました。キツい場所でやっていけたら自信が得られるだろうとも考えていました」

―― こうして配属されたのが希望通りの普通科。ここからしても五島氏は少し変わっていると言わざるを得ないだろう。しかし何かに特化するのでは無く“何でもやる”のも普通科の特徴、これも五島氏には幸いする。スペシャリストでは無いので日々さまざまな訓練を経験することになる。
戦闘はもちろん敵に見つかること無く敵地へと潜入する術など、まさに戦場で必要になる幅広い訓練を受け五島氏は自衛官として磨かれていくことになる。

「自分の判断基準は当時から変わっていなくて“渋い”か“ダサい”かの二択なんです。警察官や消防官、自衛官などのヒーロー職は自分の中では最上級に渋い仕事(=かっこいい仕事)だと感じていました。そして自衛官をしていて一番良いと思ったのは、まわりから重要な仕事を任せられることでした。隊からも仲間からも期待されることに大きなやりがいを感じたんです。
戦闘という厳しい環境での働きに責任を負うことは、学生時代には感じたことのなかった感覚で、自衛官になって良かったと思えたのはそんな瞬間でした」

狙撃手のスキルや知識を自ら高め
独自の訓練や知識アップに没頭する

その後、いくつかの補職を経て狙撃手となる五島氏。そこでもまたもうひとつの気づきを得ることになる。

「狙撃を任されたことも今の自分を作る上では大きい出来事でした。あまり詳細をお話することはできませんが、当時の自衛隊の狙撃手には明確なよりどころが少なく、自分たちであらゆる工夫をすることが求められる環境でした。

決められた訓練のみならず自分たちで考えて訓練を進めることができたんです。多様化・複雑化する任務に適応するために色々な学びの方法を自ら考えて実践していきました」

「とにかく本質を突き詰めることしか考えておらず、盲目的に型にはまるのが嫌でした、自分で知識を吸収していく、他が知らない知識を学ぶことがとにかく面白い時期でした。探究心とかストイックという言葉が自分には合っているのだとハッキリ認識したのもこの頃でした」

―― しかし、こうして自らが鍛錬をしてスキルアップをして狙撃手としての技術を磨き上げていくことに注力すればするほど、同じぐらいの疑問も生まれてきたという。

どんどん自己研鑽はエスカレートしていき自費で部外の講習を受けたりもしました。やりたいようにやらせてもらって自らを高められたのはすごく楽しい時期だったのですが、一方では何かもの足りない、疑問を感じ始めたんです。その問題意識は訓練してスキルと知識が備わっていけば行くほど高まっていきました」

五島氏のもの足りなさや疑問はこのまま部隊にいても良いのだろうか? と言うものだった。

自衛隊の中にいて関われる人の数は限られています。身近な隊員や自分の部隊のみを盛り上げていくよりも、もっと多くの人に会って何かを突き詰めることの愉しさを共有したいと思ったんです。いろいろ考えましたが結論としては民間に出てやっていこうと思いました。もちろん自衛隊は好きなのですが“好きゆえに民間に出る”という感覚でした」

民間企業で自らのスキルを生かす方法を見つけ
さらにすべての要素を含んだ田村装備開発と出会う

程なくして自衛官を辞した五島氏、民間では自衛隊で培った軍隊式の問題解決法を広く伝えたいと思ったのが転職時のひとつのテーマだった。まずは身辺警護の職に就き、さらに一般の民間企業に転職しセキュリティ、緊急対応を行う部署に配属される。

「一般の企業に勤めたのは自衛官とは異なる環境で自分がどこまでできるのか、役に立てるのかを試したかったこともあって異なる環境をあえて選んだ部分もあります」

―― 一般企業の緊急対応を実施して行く中で、自衛官時代のノウハウを少しずつ伝えてける環境を得ることになる。例えば交通事故の対応もそのひとつだった。

「発生した問題をどのように解決するかは、徹底した合理主義の世界だと考えています。自衛官時代にさまざまな経験をして学んだことです。一般企業では交通事故対応なども業務の中にありました。その際に、事故を起こした当事者から電話を受けて最初の応対をする際には、困っている当事者の話を聞くことに終始してしまいがちです。

しかしそれでは問題の解決には繋がりません。まずは冷淡にやるべきこをやる指示を出します、現在危険が迫っているならば安全を確保する、さらにどのような順番で処置をこなしていくかも指示しなければ行けません。そして当事者にはあくまでも冷静にすべての行動を行うことも説いて聞かせます。これはあくまでも一例ですが、このような緊急対応の対処プログラムも企業内で共有していきました」

―― 自衛官として培った技術や知識を広く伝えたい、そんな思いで民間に出た五島氏。一般企業では当初の目的通りに自らのスキルを存分に活かすことのできる職場に着くことができた。しかし、そんな充実した生活を送っている時に、現在の職場である田村装備開発の求人募集と出会うことになった。

「以前から田村装備開発は知っていたし連絡を取ったこともありました。しかし求人が出ていたのであらためて田村装備開発のことを調べて業務などを詳細に見たんです。するとセキュリティ、訓練指導、装備品の開発と自分がやりたいことがすべて備わっている組織だと言うことがわかったんです。自分の性能をもっと発揮できる仕事はここにある! と直感して応募することにしました」

こうして田村装備開発の一員となった五島氏、当初は自分の持つ技術が自衛官や警察官の助けになることに大きな魅力を感じていた。
しかし実際に田村装備開発で訓練の仕事を始めるとその思いは少し違っていたことを感じる。

「TTCの講師として仕事をはじめてみると訓練の奥深さをまざまざと見せつけられました。実戦さながらの撃ち合いをすると受講生の感性がさらに高められていくのを感じます。敵を倒すためにはどうするべきか、戦闘の際には“読み”が研ぎ澄まされていきます。

さらにさまざまな情報をインプットした上での都度都度の判断力も求められます。これはえらいところに来てしまった……そう思ったんです。自分自身をもっと高めていかないと受講生の助けになれないと入社当時の訓練で強く感じました」

―― その後、徐々に経験を積み講師の職にも自信を持つようになっていった五島氏。今ではTTCには無くてはならない存在になっている。

「講師として心がけていることはロジカルに課題を実施すること、またひとつひとつの訓練を言語化して伝えていくことです。また自分の強みは運用面です、いわゆる部隊として強くするためにはどうすれば良いのかを伝えることです。

例えば撃ち合いでも負けても、総合点で負けない実力を付ける。勉強で言えばある教科で100点を取るが他はダメなのでは無く、すべての教科を70点に持ち上げること、さらには受験できる教科数を増やすことです。同じリソースを持っていれば負けない、そんな自信を付けてもらうことも私の役目です。これが私なりの、私から提供できる価値のある訓練だと思っています」

―― また、自衛官時代から疑問に思ってきたことの回答も少しずつ見えてきたという。

「言われたことをその通りにできる受講者は多いです。しかしひとつひとつの行動に対して納得したうえで取り組める人を育てたいと思っています。自分で納得して解釈すれば、問題解決のための方法は他にもあることがわかるハズです。目的達成のため、自ら考えてあらゆる手段を尽くせる。そう思えるところまで受講生を高めていきたいのです」

装備品を自らがミシンを使って開発
マルチタスクな才能をフルに発揮する

そんな五島氏のもうひとつの側面が、先にも紹介した装備開発の担当分野だ。自衛官時代から、比較的自由の利く部隊にいたこともあって自分の装備を自分で工夫して作ることも多かった。

「縫製ができるようになったのは子供の時から機械いじりが好きで、家にあった母のミシンに興味を持ったのがきっかけでした。そこから縫い物をするようになっていったんです。自衛官時代もマガジンを入れるポーチなど、装備品や市販品では不足すると思ったものは積極的に自分でアイデアを絞って作るようにしていました」

―― そんな五島氏が培った装備品の企画開発の技術が生かされているのも田村装備開発の特徴だ。実際に五島氏は同社のナイロンギアの開発を担い、企画からデザイン、さらにミシンを使って自らがプロトタイプを作ることも実施する。外注管理や部材の管理までを引き受けているのも五島氏らしい。

「TTCの講師に加えて装備品を作ることも非常にやりがいのある作業なんです。同時にいくつかの仕事を併走させる、そんなマルチドメインな感じも自分らしくて良いな~と感じています、この環境がほんとに楽しくて気に入ってます」

―― 新しい製品を作る際、縫い物を始めるときには布と針に完成形を問うという。2次元の布を頭の中で3次元の製品に組み立てる、そして実際にミシンで縫いはじめて行く中でズレを修正して完成形を作り上げて行く。そんな作業も五島氏の得意とする分野だ。

厳しく受講者を指導するTTCの講師という側面、そこでストイックに自分の技術を高めて指導レベルを上げ続ける側面、さらにモノ作りをするクリエイティブな側面、そしてミシンを使ってプロトタイプを縫製していく側面など、まさにマルチタスクでさまざまな作業を、いずれも高いレベルでこなしていく五島氏。

スペシャリストがもてはやされることが多い世界の中にあって、五島氏は自身がマルチタスクなゼネラリストであることを誇りとしている。すべてにおいて真摯に向き合うストイックさこそが五島氏の存在そのものなのだろう。

PROFILE

五島 義識(ごとう よしのり)

昭和58年に兵庫県生まれ、1歳から18歳までを神奈川県で育ち、平成14年に陸上自衛隊に入隊。普通科部隊の小銃小隊にて11年間奉職 陸曹で退職。平成25年に自衛隊を退職し身辺警護の職に就き、さらに一般企業を経験した後、田村装備開発に入社。